第四幼稚園の園舎は、昭和48年、1973年1月に建築されました。鉄骨造りで建築後50年が経過して一番古い園舎となっております。 また、令和5年度の入園希望者は4歳児が5人で、5歳児の12人と合わせて17人の園児で運営をしていくことになるわけであります。
これまで日野市は、昭和30年代まで企業、工場などの立地誘導や昭和30年以降の高度成長期における首都圏への人口流入に対応した住宅の供給など、時代や社会の要請を受け、その場面場面で区画整理事業という事業手法を選択しながら成長の基盤をつくってきたところです。
三沢中学校は昭和52年4月1日に開校いたしました。防音壁については、昭和58年に市と京王電鉄で協定を締結して、費用を市が負担、京王電鉄が施工を行い築造されました。協定書において、防音壁の維持管理は日野市が行って、工事等についてはその都度、市と京王電鉄により協議を行うという内容になっております。
老人福祉法が昭和38年に制定されまして、それ以降ですね、地方公共団体に、責務としていろいろと支援をしなさいということで、法律があるわけですけれども、高齢者が増えているにもかかわらずですね、なかなか老人クラブの減少傾向は続いているということで、やはりここは何かしら行政としてですね、しっかり取組を強化するべきではないかなと思っております。
素案のところを少しお時間をいただいて読ませていただきますけども、市立幼稚園閉園計画の素案の内容のこのポイントですね、背景のところで、昭和40年代の幼児人口の急増期、私立幼稚園の収容人数を超えた幼児を受け入れるための私立幼稚園の補完的役割として、公立幼稚園が設置されてきた。 それが当時の公立幼稚園の大きな役割、柱の一つになりますかね。
昭和29年に学校給食法ができて60年以上がたちます。学校給食は、この間確実に進化してきました。その中で、地場産食材の利用に関して、食育推進基本計画の政策目標となっていることもあり、確実に増えてきているようです。本市において、どの程度地場食材が使われているのか、地産地消の推進状況について伺います。 以上の2項目の質問につきまして答弁をよろしくお願いいたします。 なお、再質問は自席にて行います。
また、第2次ベビーブームに伴う児童生徒数の増加に対応するため、市立小中学校27校のうち、13校は昭和30年代から40年代に、残りの6校も昭和50年代に建設されているため、今後一斉に更新時期を迎えることになります。学校施設は、子どもたちの学びの場としてはもちろんのこと、災害時には避難所としても重要な役割を担うため、その安全性確保の必要性は論をまちません。
しかし、高度経済成長期の人口増を契機として、昭和46年に三多摩市長会から、上水の供給管理を東京都に一元化するよう求める要望書が東京都宛に提出されています。こうして平成12年に東京都によって都営水道一元化計画が作成され、平成14年度に登録申請が締め切られ、平成19年度から河川水を主体とする都営水道からの上水供給が開始されました。
昭和20年4月12日、田無駅北口を中心に1トン爆弾が多数投下、7月29日には原爆模擬爆弾が柳沢地区に落とされたことにより、多くの命が一瞬で奪われました。今のこの日本、そして西東京市があるのは、その犠牲になられた方々の上に築かれているということは言うまでもありません。私の祖父も戦争体験者であり、シベリアで捕虜となりましたが、奇跡的に帰ってくることができました。
日本においては、昭和25年に施行された文化財保護法に基づき、有形、無形の文化財の指定や保護措置等が体系的に講じられ、文化財の所有者や保存団体、地域住民等の尽力によって、文化財保護が行われてきました。
旧田無市では、昭和20年(1945年)4月12日にB29の爆撃により田無駅周辺で134名の貴い命が奪われております。その御霊を慰霊する会として昭和32年には田無駅頭に観音像が建立され、また、旧保谷市では戦争に出征し帰らぬ人となった方々の霊を慰霊する和楽平梵講というんですかね、という組織が昭和38年より発足し、現在は郷友会という名前になって活動をされております。
昭和36年に開設された市立病院は、今年で62年目を迎えることとなります。令和元年からの新型コロナウイルス感染症の感染拡大を受けて、医療環境はさま変わりをしているところと思います。市立病院ではPCR検査の実施やコロナ専用病棟を設けるなど、公立病院として市民の健康維持のために重責を担ってきたところでございます。
本路線は、世田谷区上祖師谷六丁目七百九十八番二地先無番から上祖師谷七丁目八百九十一番一地先無番までの延長百五・三九メートル、幅員二・六五メートルから二・七七メートルまでの道路で、昭和二十八年に東京都より移管を受けた一括認定区道でございます。 次ページの案内図を御覧ください。
◆菅沼つとむ 委員 担当としてちょっと聞きたいんですけれども、今、昭和二十二年が七十五になっているんですけれども、それがなくなる十五年か二十年ぐらいのほうをこれから医療費だとか様々かかると思っているんですけれども、担当はどういうふうに読んでいるんですか、この十年ぐらい。
78年前の昭和20年4月12日、田無駅北口を中心とした爆撃により100名以上の命が一瞬で奪われました。この大空襲の歴史を私たちは決して忘れてはなりません。「戦争は絶対にいけない」との強い思いは、西東京市平和推進に関する条例の制定につながり、その日を「西東京市平和の日」といたしました。
建物自体は昭和53年に竣工して以降、旧耐震基準ではありますが、大規模改修、耐震補強工事は行わず、旧学校施設の暫定的な有効活用の位置づけの中で、少しでも長く施設を利用できるよう、必要不可欠な老朽化対策を行ってきました。
いわゆる昭和通り、日光街道にかけてのところなんですけれども、幅員のことでいいますと、今度は柳通りが狭くなってしまうという課題ですよね。ここはどうされようとしているか、当分はこのままで仕方がないよねと。そうしてくださいよという意味でお聞きしているのではなくて、さあどうするんだろうと。素朴なことで今、伺っています。
当該路線は、上祖師谷六・七丁目地内で、区立上祖師谷中学校の敷地内及び東側に位置する昭和二十八年に東京都より移管を受けました一括認定区道でございます。
まず、1主旨でございますが、千歳台小学校では、昭和五十九年に川場小学校と姉妹校として提携しておりまして、現在も川場移動教室のほかに、川場小学校からの来校による夏の交流や川場村でのスキー交流など両校による独自の取組を行っております。また、川場村の木材を利用しましたログハウスが創立当初から常設されておりまして、特色のある学校となっております。